たまには真面目な話も(笑)

 

 担当ページのメモだけ書き連ねていくのも、見て下さる一握りの皆さまに失礼かなー、と不意に思いましたので(コラ)、mixiの方では書かないような真面目な話題について書いてみようかと不意に思い立ってみました。

 というのも、久々にとある本を通読しましたもので。

マルドゥック

 『マルドゥック・スクランブル』。そしてその続編(前日譚)、『マルドゥック・ヴェロシティ』。沖方 丁先生の著作です。

 

 さて、先に注意書きをしておきましょう。

 ここから先は、アニメやゲームで育ち、ライトノベル小説家を目指すという無邪気な志を持つ若人には毒です。そうした方には、ここで読むのを止めておくことをお勧めします。

 また、この著作自体、なんとなく小説家というものに「憧れている」程度の人が読むことは危険だと思います。

 

 なぜなら。

 この本を読んで、私ちくわは「ファンタジー作品を書く小説家になる」という夢をばっさり切り捨てたのです。

 

 そもそも私が小説家になりたいと思ったのは、『指輪物語』や『ドラゴンランス戦記』、『ゲド戦記』、『エルリック』シリーズなどの、海外ファンタジー小説の古典に触れた時でした。

 現実には存在しない幻想の世界が、まるで目の前にあるかのように広がる感覚。現実ではありえない、壮大な物語の展開とロマン。

 日本文学や歴史小説程度しか読んだ事がない無垢な中学生には、このカルチャーショックはあまりに強烈でした。

 

 そしてその頃から、世間には「ライトノベル」と後に呼ばれるようになる作品が溢れるようになりました。

 富士見書房さんの『スレイヤーズ!』あたりからでしょうか。それまでは角川スニーカー文庫などで細々と展開していた、こうしたジャンルの小説が世に大々的に広まっていったのは。

 そんな作品の中の一つ、冴木 忍先生の『卵王子』シリーズに出会い、本気で泣いたのもこの頃ですね。まさか本を読んで泣くことがあるだなどと、それまでは想像だにしなかったことです。これもまた、カルチャーショックと言えるでしょう。

 

 親が必要なことの半分も教えてくれなくなりつつある今の時代、特に中学生などの若い人たちに、このような感動を読みやすい形で伝えられるライトノベルこそ、これからの時代の「小説」の一形態なのだ。

 そう理解し、そしてそうした小説の書き手になることを本気で考えながら、十数年。

 何の因果か導きか、私は今のフリーライターという仕事に就き、出版界に身を投じることとなりました。

 

 そうして業界の中から見つめ直し、ライトノベルというものがなぜ世間に認められていったのかという、その仕組みの一端も理解できました。

 ライトノベルの魅力の一端、それは「自分にも書けるのではないか」と思わせること。

 直接的にそうした誘致が込められているわけではありませんが、子供向けの絵本の文字にすべてふりがなを振るかのように、表現方法を軟化し、読みやすさを重視。さらに大量の作品を短期間で量産していくことにより、かつての文学作品などのように「世代を超えて残す」ことよりも、「消費していく」ことを前提としたことによる「気軽さ」。

 さらに美麗なイラストや主人公たちの明確なキャラクター設定、さらにキャラクターのセリフをより砕けた調子にしたり、文章内でのセリフの割合を増やしたりすることにより、物語ではなくキャラクターそのものを作品的価値の中心に置き、親しみやすく、また容易にアニメやマンガなどの別メディアへの転化ができるようにしたシステム。

 これらがライトノベルの普及と消費を加速させ、日本の小説というものの概念を塗り替えていったのでは、と私は考えています。

 そうした感覚の副次的効果として、「自分にもこれくらいの話は書ける」と読者は思い、実際に一部の読者は大賞に作品を投じ、プロとなります。そして、大量に消費されていく作品を作る、新たな担い手となっていくのです。

 本そのものが読まれなくなりつつあるこの時代に、出版界が切り開いた「本を消費する」「他メディアに展開する」という概念を生み出すことで本を売っていく、新たな商業戦略。その結晶が、ライトノベルという新たな文化なのではないでしょうか。

 

 こうしてライトノベルの商業的な道具としての一面を知り、夢の中の無垢な一部は音を立てて崩れ去りはしましたが、それでも子供たちに感動を伝えられる仕事として、ライトノベル小説家になる機会はないものかと、仕事をこなしつつも目を光らせ、作品をひそかに書いては捨て行く日々はしばらく続きました。

 『マルドゥック』に、出会うまでは。

 

 正直、私はこの作品を、今回を含めて三回しか通して読んだことはありません。初めて読んだ時の衝撃と、それまでの半生を費やしてきた夢が突き崩されていく喪失感が思い出され、恐ろしいからです。

 三回目となる今回は素直に読めましたが、二回目の時などは実際に体が震え、一週間は続きを読むことを体と頭が拒否し続けたほどです。

 

 本作の内容については、私程度が語ることなどできないでしょう。SF大作であること、少女が歩み、成長……いや、「生まれる」物語であるということ。その程度しか、人には語れません。

 ただ、確かに言えることが一つ。

 正直、この作品より面白い作品は、世の中には数多く存在するでしょう。だから、私は特にこの作品を個人に勧めるということは、身内でない限りはまずしません。

 実際、SFや残酷な表現、ダークな物語が嫌いと言う方には、「何が面白いの?」と否定されることも多いですし。

 

 しかし、私はこの作品を読んで、自分の夢が抱えていた大いなる過ちに気付かされました。

 

 私が書きたかったものは、「小説」ではなかった。

 小説とは、これほどまでに痛烈に、かつ鮮明に、まさに輝かんばかりに作者の魂を伝えるメディアなのだと、初めて思い知らされたのです。

 

 その魂の輝きを文面で伝えられるなら、私はとっくに「小説家」になっているでしょう。だからその「輝き」についても、内容同様語りません。語れません。

 『マルドゥック・スクランブル』の第二巻終盤から、第三巻中盤までに渡り描かれるカジノでのシーン。作者が自らビジネスホテルでカンヅメ状態になって自分を追い込み、執筆中に嘔吐し、その吐瀉物を見て笑った自分を「狂ったのではないか」と思ったという、まさに命を削り魂を込めた描写。

 そこまでするのか、小説というものは。

 命をかけ、魂をこめるものなのか、エンターテインメントというものは。

 未熟かつ若輩な、いわばチェリーだった自分の甘い考えは、一撃で砕かれました。

 

 カジノシーンの最後、主人公である少女にかけられた言葉。

 「俺は今、勇気を見た。謙虚を見た。俺の目の前で誰かが完全に勝つのを初めて見た」

 そして、泣き崩れる少女の声無き言葉。

 《カードが、見えません》

 この二言で、人生で二度目の「読書中の涙」を、服が汚れるほどに流しました。

 カジノシーンでの「ゲーム」の流れを必死に追いかけていた脳は完全にオーバーヒートし、頭痛すらしていました。それすらも、感動の一部でした。

 

 そうして泣きながら、自分が道具のように思っていた「小説」というものは、かくも偉大な精神の輝きであり、もっと神々しいものであると知りました。

 そして、自分が描きたかったものは、小説などではなく、ホームページで公開され、大衆に伝えられる日記のようなものであることも。

 

 無論、ライトノベルが小説以下、などという驕った考えは持っていません。現にライトノベルのレベルは年々進化し、メディアへの波及力はもちろんのこと、その内容についてもより深みのあるものが増えつつあります。「消費される」時代は、次第に終わりつつあるのでしょう。「残される」ライトノベルの時代が来ています。

 しかし、強弁させていただくならば、「小説」ではない。

 キャラクターや物語の魅力を光らせるこれらの作品は、作者の魂の輝きが光る「小説」ではない。

 

 そうしたことが可能になる「小説の文才」というものは、自分にはないということが、業界に入ってみるとはっきりと分かりました。

 そして、それが必要ないということも。

 自分が文章を通じて語りたかったことは自分の魂の輝きではなく、世の中にありふれながらも気が付きにくい、少年少女にとって「大事なもの」の数々であり、それは自分の魂が表現するものではなく、ただ少し、それに気が付けるように導いてあげればいいだけのこと。

 魂を押し付けるような強行などではなく、むしろそれをきっかけに、自ら気が付いてくれるように。自立の手助けができるように。

 それこそが、自分の夢の本質だったと、ようやく気が付くことができました。本来なら、夏目漱石や芥川龍之介、海外ファンタジー小説などを読んだ時点で気が付くべきことだったのですが、これらを読んだ当時、自分はあまりにも幼すぎたのでしょう。

 今では、日本で一番面白いコメディーノベルは『我輩は猫である』だと言って、はばかりませんが(笑)。

 

 そうしたことを踏まえ、仕事に打ち込むうちに、ゲームの紹介記事や攻略本の記事を書いていくゲーム系フリーライターの仕事は、まさに転職なのだと思えるようになっていきました。

 特に新作ゲームの「面白さ」を伝える紹介記事については、生きがいさえ感じます。

 

 作品の「悪い点」を挙げ、こき下ろすことならだれにでも出来ます。実際ネットでは氾濫していますしね。

 しかし、「良い点」を見つけ、それを記事で表現し、そのゲームを知らない読者に「面白そうだし、一回やってみるか」と思ってもらえるように伝えること……そのゲームの面白さを通じて幾千の人と、面白さを共有していくこと。これは何にも代えがたい感動と快感です。

 自分の好きなアニメやドラマについて友達に語って、その人が後日「観たよ。たしかに面白いねぇ!」と喜んでくれたりしたら、皆さんも嬉しいですよね? それが友達のみならず、全国規模で本を読んだ無数の人々との間で成り立つだなんて……素敵すぎると思いません?

 ちなみに今ではこの仕事を長くやらせていただいたおかげで、どんなにつまらないと言われるゲームでも、「面白さ」を見つけて心から楽しめるという才能を手に入れました。ゲーマーとしては非常にお得な能力です(笑)。

 

 もし『マルドゥック』に出会わずにこの仕事を続けていたら、小説というものを誤解したまま仕事と小説の間に立ち続け、やがて公私の時間の崩壊などから、自滅を迎えていたことでしょう。

 自分がすべきこと、自分に出来ること、自分が目指すこと。これらをはっきりと自覚した時から、仕事に充実感が得られ、そして自分がライターとして、純粋に加速していく実感を得ることが出来ました。

 きっと、それがプロとしての自覚と、誇りの芽生えだったのでしょう。

 

 『マルドゥック』が自分にとってどんな作品か、ということを語るならば、以上のようになります。

 勧めはしません。しかし、自分は確かに、この作品によって打ちのめされ、泣き崩れ、そして「生まれる」ことができたと思っています。

 

 そして、今もしっかりと歩いている実感を得られています。

 何のために歩くのか? 作中の言葉を借りるなら、「勝利者」になるために。

 

 あとついでに、TRPGなどで人を楽しませる際には、魂を削り反吐を吐くくらいの覚悟で打ち込むようにもなれました(笑)。

 エンターテインメントとは、やはりかくあるべき!

 

 と、まぁ最後まで真面目さが続かないあたりも、自分の文才の限界であり魅力であると思っておりますYO。

 楽しませ、楽しさを伝え、楽しさを共有する物書きに、そんな文才はへのつっぱり並にいらんのですよ奥さん。むしろいらん。邪魔(゚Д゚)

 

 

 そんなこんなで、今回は長文となりましたが、そろそろまた来世ということで。

 今後も皆さまと文面を通じて「楽しさ」を共有できればこれ幸いでございます(・∀・)ノシ

 

 

追記:『闘劇魂vol.11』担当ページ

 発売されました『闘劇魂vol.11』では、P51~53の『KOF XII』紹介、P74の『アルカナハート』のパラセ紹介、P154の投稿ページ『闘羅武』と、5ページのみ担当しています。

 記事はもちろん、DVD内容の激濃ゆっぷりは今回も健在! 格ゲーマーは飯代削ってでも買ってください(・∀・)(コラ)

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